2013年の3月、いつものように槇原敬之ファンクラブsmiledogより会報誌が届いた。槇原敬之のファンクラブは、年6回会報誌が届く。ほとんどのミュージシャンにファンクラブというものがあるが、年に6回も会報誌が届くファンクラブは、意外に少ないようだ。

もう長い間ファンクラブに入っているので、会報誌の大きさや厚みが違うと、「今月は何かあるのかな?!」と分かってしまうぐらいの僕。2013年3月に届いた会報誌は、いつもより厚みがあったため、会報誌の入った封筒を持った瞬間、「あれっ?!」と思った。何が入っているのだろうかと思いながら封を開けると、中にはビックリするものが入っていた。

ファンクラブ継続10年以上の方を対象にした、槇原敬之書き下ろしの歌が入っていたのだ。槇原敬之が長年のファンに向けた感謝の気持ちを込めたその楽曲の曲名は、「10年先も、20年先も。」という歌だ。タイトルを見た瞬間に、泣いてしまったが、勿論歌のほうも素晴らしい楽曲だった。

長年寄り添うカップルを描いた歌

「10年先も、20年先も。」は、愛する人と待ち合わせている場面を描いている。移り変わりの早い時代で、街の景色もドンドン変わっていってしまう。初めて待ち合わせた二人のお店も、いつのまにか無くなってしまうような現代。二人が住む街の景色も凄い早さで変わっていってしまうが、そんな中でも変わらず同じように側にいてくれる愛する人のことを、軽快なメロディーで、槇原敬之が歌いあげている。

変わらない二人の愛と、変わっていく街の景色を対比することで、愛することの意味を教えてくれる。「きっと君の好きな僕より、そうじゃない僕ばかり見せてきた」この曲のサビで、槇原敬之はこう歌っている。長年いっしょにいると、相手のいい姿より、相手の嫌な部分のほうをたくさん見せられてしまう。そういったときに、その人への気持ちがどう変わるのか、変わらないのか。それこそが本当の愛だと、「10年先も、20年先も。」は教えてくれる。

槇原敬之らしい情景描写も

二番のサビの前では、「少しだけ新しい景色の中、見慣れたいつもの顔が、人混みをかき分けながらだんだん僕に近づいてくる」と歌っている。こういった当たり前のようなワンシーンを、歌で聞いただけでイメージさせてしまうのが、槇原敬之の圧倒的に凄いところ。映像も何もないのに、歌詞とメロディーと音だけで、日常の何気ないワンシーンを鮮烈に描く。これこそが他のアーティストでは真似できない、彼独自の世界観。その世界観はずっと変わらず、デビューから24年経った今も健在だ。

誰が聞いても情景を思い浮かべることができるのは、きっと槇原敬之の歌が、詞を先に書いてから、音を作っていくからだと思う。ほとんどの歌は、メロディーを先に作って、そこに歌いやすいような歌詞を付けていく。そういった手法を取ると、歌詞に深みが出ず、本当に大事なことが伝えきれていないように思う。歌詞から先に作るというのは、ものすごく難しいことのようだが、それだけ苦労して先にじっくりと歌のテーマや、本当に伝えたいことを描き切ることで、自然とその歌にあった音が出来ていくんだと思う。だからこそ彼の歌は、他の歌手より圧倒的に文字が多いのに、とても聞きやすく、メロディアスなんだと思う。

振り返ると色々ありました

僕が槇原敬之のファンになったのは、中学生のとき。「どんなときも。どんなときも。」とキーボードを前にして歌う彼を見て以来、ずっと変わらず槇原敬之のファンでいる。ちょうど中学生ぐらいになると、色気づいてくる時期で、どんな歌手が好き?みたいな話が出てくる。やはり多感な時期ということもあり、ルックス的に華やかな人や、バンド系の歌手を好きだと上げる人が多かった。そんな周りをよそに、「どんな歌手が好き?」と聞かれたとき、僕が答えたのは「槇原敬之」だった。お世辞にもカッコイイとは言えない、垢抜けない青年の名前を上げた僕を、あまり周りは理解してくれなかった。やはり中学生ぐらいのときは、分かりやすいものに人気がいく。単純にカッコイイ人や、可愛い人。そういったものを好きになるのが僕も当然だと思う。当時槇原敬之は、「どんなときも。」で一気にスポットライトを浴びたので勿論人気はあったのだが、中学生の男が好きと言うようなミュージシャンではなかったんだと思う。

1990年代日本の音楽シーンはとても熱かった。今では考えられないくらいヒット曲が生まれ、様々な歌が街を賑わしていた。今も歌い継がれているような素晴らしい歌もたくさんあるが、それらの曲を聞いてもピンとこなかった。そんな僕の心を初めて揺さぶったのが、槇原敬之だった。垢抜けない青年が「どんなときも。どんなときも。」と歌っているのをテレビで見たとき、初めて歌が心に聞こえてきた。周りの音がすべて聞こえなくなって、時間が止まり、心にダイレクトに歌が届いてきた。耳じゃなくて心で歌を聞いた瞬間だった。

それ以来、彼がリリースする歌をすべて購入してきた。新作が出る度に唸らされる歌詞、作りこまれた音の世界観。当時から圧倒的に唯一無二だった。聞けば聞くほど、ハマっていった。僕が槇原敬之のファンになったのは、奥深い歌詞だけではなく、打ち込みという手法を使うことで、完璧に作りこまれた音の世界があったからだと思う。他のどんなミュージシャンの歌を聞いても、彼以上に世界観がある歌はなかった。音の重ね方や構築の仕方、聞こえないような奥のほうにも面白い音が隠されていた。どれだけ僕がこれ凄いよと言って聞かせても、なかなかそれを理解してくれる人はいなかった。「こんな歌の何がいいんだよ」高校生ぐらいの頃には、こんなことを言われたりもした。高校生ぐらいになると、もっとカッコイイミュージシャンを好きになるのが普通だろう。あの頃はビジュアル系バンドの人気が高い時代で、そういった音楽を好きになるのが普通だったように思う。

僕が槇原敬之の歌を好きだと言っても、ほとんどの人は賛同してくれなかった。僕も同じように、みんなが好きなミュージシャンを好きになれば楽だったのにと思ったこともあった。でも、あれから20年以上経っても変わらず素晴らしい歌を歌っている槇原敬之の姿を見ると、あの時ファンになって本当に良かったと思うし、移り変わりが激しい音楽シーンの中で今も健在している事実に、僕の感じたものは間違っていなかったと誇りに思う。「君が好きなそのミュージシャンは、20年先も変わらず素晴らしい歌を歌っているから。だからずっとファンでいるんだよ。」と、あの当時の僕にそっと言ってあげたい。

10年以上ファンクラブに継続しよう!

この「10年先も、20年先も。」を聞きたいのなら、ファンクラブに10年以上入ってくださいとしか言いようがない。なかなか10年もファンクラブに継続加入するというのは難しいことのようだ。槇原敬之のコアなファンでも、意外に10年以上ファンクラブに継続加入している人がいない。そう考えると、よく20年もファンクラブに入っているなぁと自分でも感心してしまう。「そんなにファンでいるのって凄いですね」とよく周りに言われる。別に僕が長年ファンでいるのが凄い訳ではない。デビューしてからずっと素晴らしい歌を世に発表してきた槇原敬之が凄いのだ。「槇原敬之の歌でどの歌が一番好き?」と聞かれても答えようがない。全部の歌が好きだから。1曲だけ好きな歌が選べるようなミュージシャンとは違う。

シングルやタイアップ曲など関係なしに、どの歌もじっくりと作られた槇原敬之の歌。あなたが知らない素晴らしい曲がまだまだあるはずだ。もしよかったら、僕の愛する槇原敬之の歌の世界に君も来てほしい。

 

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